2021年 3月11日
本日は東日本大震災が発生してから10年を迎える日です。10年と聞くと一昔前のようにも思えてしまいますが、まだまだ復興の途中であります。今日は当時私は何をしていたのか、また今思うことをつづります。
地震が起きた日、私は幼稚園の年長であり延長保育(きりん組と呼ばれていた)にいました。 その時私は本を読もうと思って、窓際にある本棚に向かったのですが、先生に「地震だから窓ガラスから離れて」と言われて教室にいたみんなで部屋の真ん中に集まりました。そして先生達は棚を押さえたり、棚の上にあった荷物を押さえたりと、慌ただしく動いていたように記憶しています。 その後外の芝生に避難することになり、もう誰のでも良いから防災頭巾を被るように指示されました。 詳しくは覚えていませんが、夕方できっと寒かったと思います。またその日は普段は一回きりのおやつの二回目が配給され、子供ながらに私は「ああ、子供達の気持ちを落ち着けるために配ったんだな」と感じていました。 子供たちは保護者のお迎えを外で待ち、それは何となく不安で、寂しい時間でありました。
祖父母は福島県のいわき市に住んでいるのですが幸いにも無事でした。家の窓ガラスが割れた程度で済んだようです。 福島は(東京でも)パニックで、きっと買い占め等が起きて物資に困るだろうということで、父が大量に食料品を買ってきて車で福島まで届けに行ったことも覚えております。 親戚で被害に逢った人はおらず、大変よかったのですがその時の日本には幼稚園児にも分かる、重い、重い空気が流れていました。テレビの右下には日本列島の図と津波警報。娯楽としてのテレビの役割はしばらくなかったことと思います。
震災から10年が経ち、私は高校生になりました。私がこうして生かされているのは何故だろうか?何の役割があって生きているのか、日々考えなくてはなりません。今日私が思ったのは、決してこの東日本大震災と津波の恐ろしさを風化させてはならないということ。歴史は繰り返します。この度の震災から学んだことを実行し、周りに伝え、また自分達の子供や孫の世代にまで語り継がなければなりません。そうでなければ亡くなった方々もうかばれないというか、言い方が悪いですが意味が無くなってしまうと思うのです。だから自然の脅威に対して、用心し過ぎるということはないのです。いつ起きるのか分からないのだから物だけでなく心構えも災害に備えて、毎日平和に暮らせることを感謝します。
今日は少し長くなりましたが、これだけは書かずにはいられませんでした。 犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
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